26Jan

この30年、日本社会では「働く」という言葉の意味が、静かに、しかし確実に変質してきたように感じます。働くことは、かつては生活の糧を得る手段であると同時に、社会の一員として役割を引き受ける行為でもありました。そこには責任があり、緊張感があり、そして時間をかけて身につけていくという前提がありました。
しかし現在、働くことはしばしば「できれば避けたい負荷」や「コストに見合わない行為」として語られます。仕事は自己実現の手段であるべきだ、楽しくなければ意味がない、無理をするのは時代遅れだ――そうした言葉自体が間違っているとは思いません。ただ、それらが過度に強調される中で、働くことに本来含まれていた「引き受ける」という要素が、意識の外へと追いやられてしまったのではないか。私はそこに、強い違和感を覚えています。
いま各業界の現場から聞こえてくる「育たない」「続かない」「当事者意識が薄い」という声は、特定の世代の問題ではありません。働くことの意味を、社会全体で共有できなくなった結果として現れている現象なのだと思います。
労働が「効率」や「快・不快」で測られるようになったとき
働くことが、効率やコストパフォーマンス、あるいは快か不快かといった尺度で測られるようになると、真っ先に切り捨てられるのが「すぐには報われない時間」です。基礎を学ぶ時間、失敗を重ねる時間、誰にも評価されない下積みの時間。これらは短期的な満足感をもたらしません。
しかし、どの分野であっても、専門性や信頼は、この「報われにくい時間」の蓄積によってしか生まれません。結果だけを欲しがり、過程を引き受けない姿勢は、一時的には合理的に見えるかもしれませんが、長期的には必ず不安定さを招きます。基礎を飛ばした仕事は、ある段階までは進めても、必ずどこかで行き詰まるからです。
本来、働くという行為の本質は、「楽かどうか」ではありません。
引き受けるかどうかです。
その仕事に伴う責任や時間、時には不条理さまで含めて引き受ける覚悟があるかどうか。その一点が、仕事を単なる作業にするか、社会的な営みにするかを分けます。この前提が共有されなくなったことこそが、この30年で失われた最も大きなものではないでしょうか。
働く姿は、言葉よりも雄弁である
人は「働くとは何か」を、説明や理屈だけで理解するわけではありません。むしろ、身近な大人の働く姿から、無意識のうちに多くを学び取っています。仕事がうまくいかない日があること。しんどい局面から逃げずに向き合うこと。文句を言いながらではなく、役割として引き受けること。そうした姿勢は、どんな言葉よりも雄弁に、働くことの意味を伝えます。
大人が仕事をどう扱っているかは、そのまま次の世代に引き継がれます。仕事を呪いのように語れば、子どもは労働を避けるものだと学びます。一方で、しんどさを含めて引き受けている姿を見せれば、働くことは社会とつながる行為なのだと自然に理解していきます。
これは家庭だけの話ではありません。職場でも同じです。上の世代がどんな態度で仕事に向き合っているかが、そのまま組織の文化になります。働く姿勢は常に誰かに見られている。この事実から逃れたまま、労働観だけを語り直すことはできません。
「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」という言葉が響いた背景
2025年、内閣総理大臣に就任した高市早苗首相が、就任会見や国会答弁の場で繰り返し用いた言葉があります。
それが、「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」というフレーズでした。
この言葉は、政策論として新奇な内容を含んでいるわけではありません。それでも多くの人の記憶に残り、当年度を象徴する言葉、いわば流行語大賞のフレーズとして広く語られました。この反応自体が、ひとつの社会的サインだったと私は捉えています。
なぜなら、この言葉は、長く続いた「働くことを軽んじる空気」に対して、真逆のベクトルを示していたからです。働くことは効率化すべき負担であり、痛みはできるだけ避けるものだ――そうした前提が広がる中で、「それでも働く」「逃げずに引き受ける」と国家のトップが言い切った。その姿勢が、多くの人に一種の安心感をもたらしたのではないでしょうか。
誰もが楽をしたいわけではありません。ただ、引き受ける意味を完全に失ってしまいたくない。働くことが社会とつながる行為であり、自分がそこに関与しているという感覚を、もう一度確かめたい。その積み重なった思いが、この一見当たり前で、しかし重い言葉に反応したのだと思います。
働くことを通じてしか得られない「社会の居場所」
働くことの価値は、収入だけでは測れません。人は仕事を通じて、社会と接続し、自分が誰かの役に立っているという実感を得ています。これは金銭とは別次元の、極めて重要な価値です。
完全に働かない状態が続くと、多くの人は不安定になります。時間はあっても居場所がない。自由はあるが役割がない。この状態は、想像以上に人を消耗させます。働くことは、社会の中に自分の席を持つことでもあるのです。
だからこそ、働き方の選択肢が広がった時代においても、「まったく働かない」ことが幸福につながるとは限りません。規模や形はどうであれ、社会と接続する仕事を持ち続けることは、人が正気を保ち、他者と関係を結び続けるための条件でもあります。
働くという価値を、もう一度手元に引き戻す
この30年で歪んでしまった働くことの価値観を、一気に修復することはできません。しかし、私たち一人ひとりができることはあります。それは、働くことを軽く扱わないという姿勢を、自分の選択の中で貫くことです。
基礎に時間をかけること。すぐに評価されなくても積み上げること。結果が出るまで引き受けること。仕事を呪いではなく、役割として捉えること。そして、その姿勢を次の世代に見せること。
働くことは、確かに楽ではありません。しんどく、面倒で、報われない瞬間もあります。それでもなお、働くことを通じてしか得られない価値がある。その事実から目を逸らさないことが、価値観が揺らいだ時代を生きる私たちに求められている態度なのではないでしょうか。


