27Jan

「ちゃんと話し合えば分かり合えるはずだ」
「対話が足りないから問題が起きる」
保育現場に限らず、多くの職場でこうした言葉が使われます。対話は大切だ、話し合いが必要だ、そのこと自体に異論はありません。しかし現場を丁寧に見ていくと、「話し合おうとしても、そもそも対話が成立していない」という状況が、少なからず存在していることに気づかされます。しかもそれは、声の大きい対立や分かりやすい衝突として現れるのではなく、沈黙やすれ違い、感情の停滞として静かに進行していきます。
本稿では、「対話が成立しない現場」に共通して見られる前提を整理しながら、とくに保育現場において、保育士の精神的・社会的な未熟さがどのように影響しているのかを考えていきます。ここで言う未熟さとは、能力や資質の問題ではありません。むしろ、構造や経験の不足から生まれる、避けがたい課題です。その前提を正しく捉えなければ、どれだけ「対話の大切さ」を叫んでも、現場は変わらないままです。
対話が成立しない現場は「分かり合う前提」を持っていない
対話が成立しない現場には、ある共通した前提があります。それは、「人は話せば分かり合える」という前提が、実は共有されていないということです。表面的には「話し合おう」「意見を出し合おう」と言いながら、内側では「どうせ分かってもらえない」「言っても無駄だ」「否定されるに決まっている」と感じている。こうした前提が積み重なると、言葉は発せられても、対話にはなりません。
保育現場では、この傾向が特に顕著です。保育士という職業は、「気持ちに寄り添う」「相手の感情を察する」ことを日常的に求められます。そのため、言葉にしなくても察してほしい、空気を読んでほしい、という期待が強くなりがちです。しかし、この「察する文化」は、対話においては大きな障害になります。言葉にしないことが美徳とされる一方で、言葉にしなければ伝わらないという現実が、軽視されてしまうからです。
その結果、対話の場においても、互いに「分かっているはず」「察しているはず」という前提で話が進み、少しの認識のズレが修正されないまま広がっていきます。対話が成立しないのは、話していないからではなく、話すことによって分かり合えるという前提が共有されていないからなのです。
精神的未熟さは「感情を扱えない形」で現れる
対話が成立しない背景には、精神的な未熟さが深く関わっています。ここで言う精神的未熟さとは、感情を持っていること自体ではありません。むしろ、感情をどう扱えばよいかを学ぶ機会が少ないまま、大人になっている状態を指します。
保育士は、こどもの感情には日々向き合っています。しかし不思議なことに、「自分自身の感情」や「大人同士の感情」を扱う訓練は、ほとんど受けていません。悲しい、悔しい、納得できない、怖い、腹が立つ。こうした感情が湧いたとき、それをどう言葉にし、どう関係の中で扱えばよいのかを学ばないまま、現場に立ち続けている人も少なくありません。
この状態では、対話は非常に難しくなります。感情が先に立ち、言葉が追いつかない。あるいは、感情を抑え込もうとして、言葉自体が出てこなくなる。結果として、「言い方がきつい」「急に黙る」「裏で不満が膨らむ」といった形で、未処理の感情が現場に現れます。
精神的に成熟した状態とは、感情がないことではありません。感情があることを前提に、それを言葉として扱える状態です。この成熟がないままでは、どれだけ対話の場を設けても、そこは感情のぶつけ合いか、沈黙の確認作業に終わってしまいます。
社会的未熟さは「役割と責任の理解不足」として現れる
対話が成立しないもう一つの大きな要因は、社会的な未熟さです。社会的未熟さとは、年齢や経験年数の問題ではありません。組織の中で、自分がどの立場にいて、どの責任を負っているのかを理解しきれていない状態を指します。
保育現場では、「みんなで協力する」「チームで支える」という言葉が頻繁に使われます。もちろん、その価値自体は非常に重要です。しかし、この言葉が強調されすぎると、役割や責任の境界が曖昧になります。誰が決めるのか、誰が最終責任を負うのか、その構造が見えなくなると、対話は一気に不毛になります。
なぜなら、立場の違いを無視した対話は、ただの意見交換になってしまうからです。立場が違えば、見ている景色も、背負っている責任も違います。それにもかかわらず、「みんな同じ立場で話そう」とすると、決定ができなくなり、不満だけが残ります。
社会的に成熟しているとは、上下関係を無条件に受け入れることではありません。自分の役割を理解した上で、どこまで意見を言い、どこからは委ねるのかを判断できる状態です。この成熟が欠けていると、対話は「言った・言わない」「聞いてもらえた・もらえない」という感情論にすり替わってしまいます。
対話を成立させるために必要なのは「技術」ではなく「前提の更新」
対話が成立しない現場に対して、「話し方研修」や「コミュニケーションスキル研修」を導入するケースは少なくありません。もちろん、それらが無意味だとは言いません。しかし、前提が更新されないまま技術だけを学んでも、根本的な改善にはつながりにくいのが現実です。
必要なのは、「対話とは何のために行うのか」という前提を共有することです。対話は、気持ちを分かち合うためだけのものではありません。より良い判断をするため、より健全な関係を築くため、そして最終的には、現場の質を高めるために行われます。この目的が共有されていなければ、対話は感情処理の場か、不満表明の場になってしまいます。
保育現場においては、ここにもう一つ重要な視点が加わります。それは、「こどものために」という軸です。
対話がつらい、話したくない、傷つきたくない。そう感じること自体は自然です。しかし、それでも対話を引き受ける理由があるとすれば、それは個人の感情を超えたところにあります。対話を避け続けた結果、現場が歪み、こどもにしわ寄せがいくのであれば、その選択は本当に正しいのか。この問いを共有できるかどうかが、対話の成立を左右します。
未熟さを否定するのではなく、前提として扱うということ
最後に強調しておきたいのは、精神的・社会的な未熟さを「悪いもの」として切り捨てないことです。未熟さは、多くの場合、経験不足や構造的な問題から生まれます。とくに保育の現場では、若い年代から責任のある仕事を任されることも多く、成熟が追いつかないまま役割を担っているケースも少なくありません。
重要なのは、未熟さを前提として現場を設計することです。最初から対話がうまくできる人など、ほとんどいません。感情を扱えない、役割を理解しきれない、その状態からどう育てていくか。そこに目を向けなければ、「対話ができない人が悪い」という結論にしかなりません。
対話が成立しない現場に共通する前提とは、「人は自然に成熟する」「話せば分かり合える」という幻想です。その幻想を手放し、未熟さを含んだ人間が、どうすれば少しずつ成熟していけるのかを考えること。その先にしか、本当の意味での対話は生まれないのだと思います。
対話とは、技術ではなく姿勢です。そしてその姿勢は、現場の前提から形づくられていきます。
その前提を問い直すところから、すべては始まるのではないでしょうか。
と同時に、未熟さを自覚し、成長することでそれを克服していくこと。
本人自身の覚悟に根ざす問題でもあるということです。



