31Jan
頑張っている人を見ると、どうしても評価したくなる。
忙しそうにしている、余裕がなさそうにしている、誰よりも多くの仕事を抱えている、その姿を見ると、ありがたいと思うし、助かっているとも感じる。特に人手不足の現場では、頑張っている人の存在そのものが組織を支えているように見える。だから評価する。その判断自体は、ごく自然だと思う。
保育の現場でも同じだ。朝から晩まで子どもと向き合い、保護者対応をして、書類を処理して、急な欠員を埋めて、感情も体力も消耗しながら現場を回している人がいる。その姿を見て、頑張っていると評価しない方が不自然だとも思う。実際、そういう人がいるから現場は回っている。
ただ、時間が経つにつれて、別の感覚が積み重なってくる。頑張っている人は増えている。誰もサボっていない。むしろ全員が一生懸命やっている。それなのに、なぜか決断が遅くなっていく。決めきれない場面が増えていく。誰が最終的に引き受けるのか分からないまま、話し合いだけが続いていく。そういう場面に、何度も出会う。
誰かの能力が低いわけでもない。責任感がないわけでもない。むしろ逆で、責任感が強い人、真面目な人、優しい人が多い組織ほど、この状態に近づいていくように見える。その違和感を、個人の問題として処理し続けると、同じことが繰り返される。だから一度、構造として考え直さないといけない。
頑張りを評価することと、判断が難しくなることは、無関係ではない。その二つは、同じ評価軸の上に並んでいるわけではないが、組織の中では確実につながっている。そのつながりを見ないまま、「もっと主体性を」「もっと判断力を」と言っても、空回りするだけになる。
ここで起きているのは、判断力の欠如ではない。判断が引き受けにくくなる設計が、静かに出来上がっているということだと思っている。
頑張りは見えるが、判断は見えない
頑張りは見える。忙しさは見える。疲労は見える。どれだけ動いているか、どれだけ抱えているかは、周囲からも分かりやすい。だから評価しやすい。感謝もしやすいし、守ろうという気持ちにもなりやすい。
一方で、判断は見えない。何を切ったのか、何をやらないと決めたのか、どこまでを自分が引き受け、どこから先を引き受けないと線を引いたのか、そういう部分は外から見えない。結果が出て初めて評価されることはあっても、その途中にある迷いや引き受けは、共有されにくい。
だから組織は、無意識のうちに見えるものを評価軸に置く。忙しそうな人、大変そうな人、消耗している人。その姿は分かりやすい。分かりやすいものは評価されやすい。評価される行動は再生産される。これは個人の性格ではなく、構造の話だ。
そうなると、少しずつ空気が変わってくる。何を決めたかより、どれだけ動いたか。何を引き受けたかより、どれだけ抱えたか。何をやらないと決めたかより、どれだけ多くの仕事を残業しながら処理したか。そういう語られ方が増えていく。
判断は、語られなくなる。語られないものは評価されない。評価されないものは、引き受けられなくなる。結果として、判断は「しない方がいいもの」になっていく。
ここで重要なのは、誰もそれを意図していないということだ。頑張っている人を評価したいだけだ。現場を守りたいだけだ。疲れている人をこれ以上追い込まないようにしたいだけだ。その積み重ねが、判断を見えなくしていく。
判断しない方が安全になる
判断にはリスクがある。決めれば、必ず誰かにとって不都合が生まれる。納得しない人が出ることもある。後から「なぜあのときそう決めたのか」と問われることもある。失敗すれば、判断した人の名前が残る。
一方で、判断を先送りし、頑張り続けることには、あまりリスクがない。忙しくしていれば責められにくい。大変な状況にあると言えば、理解もされやすい。結果が出なくても、「よくやっていた」という評価は残る。
そうなると、合理的な選択が生まれる。判断しない方が安全だ、という選択だ。誰かが明確に決めるより、みんなで話し続けた方が安全だ。線を引くより、抱え続けた方が評価される。これは怠慢ではない。構造的に合理的な行動だ。
頑張っている人が多い組織ほど、この傾向は強まる。全員が一生懸命だからこそ、誰かが線を引くと「頑張っていない人」に見えてしまう。決める人は、どうしても冷たい側に立たされる。
誰も直接責めない。だが、空気が変わる。距離が生まれる。判断を引き受けた人ほど、孤立感を持ちやすくなる。その経験が積み重なると、人は学習する。決めない方が楽だ、言わない方が安全だ、頑張っている姿を見せていた方が評価される、と。
こうして、判断は組織の中から静かに後退していく。
判断を引き受ける人が、少しずつ言葉を失っていく
判断が難しくなった組織で起きていることは、派手ではない。誰かが声高に反発するわけでもないし、明確な対立が表に出るわけでもない。もっと静かで、もっと分かりにくい形で進んでいく。
判断を引き受けようとする人がいる。現場を整理しようとする人、役割を明確にしようとする人、線を引こうとする人。その人たちは、最初から冷たいわけではない。むしろ逆で、現場を大切にしているからこそ、無理が続いている状態をどうにかしたいと思っている。
ただ、判断を言葉にした瞬間、空気が少し変わる。「そこまで言わなくても」「今はみんな大変だから」「もう少し様子を見てもいいのではないか」。誰かが強く反論するわけではないが、判断を押し戻す力が働く。その力は、善意でできている。
頑張っている人が多い組織ほど、この力は強い。誰もが自分なりに限界までやっているという自覚があるからだ。だから、線を引く判断は、どうしても「頑張りを否定する行為」のように受け取られやすくなる。
その結果、判断を引き受けようとした人は学習する。言葉を選ぶようになる。直接的な表現を避けるようになる。断定しない言い回しに変えていく。そうやって、判断は少しずつ曖昧になる。
やがて、判断そのものを言葉にしなくなる。言わなくてもいいなら、言わない方が楽だ。決めなくても責められないなら、決めない方が安全だ。その選択は、個人の弱さではない。組織の中で合理的に形成された振る舞いだ。
こうして、判断を引き受ける人ほど、静かに言葉を失っていく。残るのは、頑張っている姿だけだ。
優しさが判断を置き換えていくプロセス
多くの組織では、優しさが大切にされている。特に保育の現場では、それは当然の価値だと思われている。子どもに対しても、保護者に対しても、職員同士に対しても、優しさは欠かせない。
問題は、優しさそのものではない。優しさが、判断の代わりになってしまうことだ。
今は言わない方がいい。今回は見送った方がいい。あの人も大変だから。そういう配慮は、一つひとつを見ると納得できる。誰かを追い詰めるよりは、待つ方がいいと思える。
ただ、それが積み重なると、別の状態が出来上がる。誰も決めていないのに、業務は増え続ける。責任の所在が曖昧なまま、現場は疲弊していく。優しさはあるが、整理はされていない。配慮はあるが、判断がない。
この状態で一番消耗するのは、頑張っている人だ。判断がないから、線を引けない。線を引けないから、仕事を手放せない。結果として、頑張っている人ほど、さらに頑張ることになる。
優しさが判断を置き換えると、誰も守られない状態が生まれる。誰か一人が冷たい役を引き受ける代わりに、全員が少しずつ消耗していく。その構造に、気づきにくいまま時間が過ぎていく。
役割が曖昧になると、判断は宙に浮く
判断が難しくなる背景には、役割の問題もある。本来、役割とは「その立場だからこそ引き受ける判断」が含まれている。立場と判断は、切り離せない。
ところが、頑張りが評価の中心になると、この関係が崩れていく。役割を果たしているかどうかより、どれだけ動いているかが評価される。役割として線を引く人より、役割を越えて何でもやる人が称賛される。
すると、役割の境界線が溶けていく。誰が最終的に決めるのか分からない。誰が責任を引き受けるのか分からない。分からないから、みんなで頑張るしかなくなる。
責任感の強い人ほど、この状態に巻き込まれる。判断を引き受けるより、業務を引き受けた方が評価されるからだ。結果として、判断は宙に浮いたまま、誰にも引き受けられなくなる。
ここで起きているのは、無責任ではない。むしろ、責任感の過剰な分散だ。誰もが責任を感じているからこそ、誰も責任を引き受けられない。
判断とは、冷たさではなく引き受けである
判断が語られるとき、「冷たい判断だった」「厳しすぎたのではないか」という言葉が出てくることがある。その言葉は、判断を感情の問題にすり替える。
判断とは、本来、冷たさの問題ではない。引き受けの問題だ。全員を守れないことを引き受ける。誰かにとって不満が残る可能性を引き受ける。間違える可能性を引き受ける。その覚悟を持つ行為だ。
判断がない状態では、引き受けは消えない。ただ、分散する。誰も決めていないのに、現場は疲れていく。誰も責任を負っていないのに、負担だけが積み重なっていく。
頑張りを評価する文化が強すぎると、この引き受けが見えなくなる。忙しさは見える。疲労は見える。だが、引き受けた判断の重さは見えない。見えないものは語られない。語られないものは評価されない。
頑張りを尊重しながら、判断を手放さないために
ここまで書いてきたことは、頑張りを否定する話ではない。頑張りは必要だ。現場を支えている。多くの組織は、頑張りによって今日まで成り立ってきた。
ただ、頑張りが判断の代替になった瞬間から、組織は少しずつ判断力を失っていく。優しさを大切にしながら、優しさに判断を委ねない。努力を尊重しながら、努力を評価の最終軸にしない。そのバランスは、簡単ではない。
頑張っている人が多い組織ほど、一度立ち止まって考える必要がある。今、自分たちは何を見て評価しているのか。何を見ないままにしているのか。誰が、どこで、何を引き受ける前提で、この組織は設計されているのか。
すぐに答えが出なくてもいい。むしろ、簡単に答えが出ない問いだからこそ、考え続ける意味がある。頑張りを見るのか。判断を引き受ける覚悟を見るのか。その違いは、組織の空気を、静かに、しかし確実に変えていく。



