18Jan

「ちゃんと理解しました」「もう分かっています」。
保育の現場でも、職員同士や保護者とのやり取りの中で、こうした言葉は日常的に使われています。しかし、その言葉が交わされたあとに、なぜか話が噛み合わなくなったり、意図しない方向に物事が進んでしまったりすることはないでしょうか。お互いに「分かったつもり」でいるのに、後からズレが表面化する。この違和感の背景には、「理解」と「解釈」を同じものとして扱ってしまっている構造があります。
理解とは、「正しく解ること」「事実や真実をそのまま解ること」です。一方で、解釈とは「自分なりに解ること」、つまり主観を通して意味づけをする行為です。
どちらも人間にとって必要な働きではありますが、この二つを混同すると、保育の現場では深刻なすれ違いや誤解を生みやすくなります。本稿では、保育士という職業の特性を踏まえながら、「理解」と「解釈」の違いをあらためて整理し、その違いがなぜ重要なのかを考えていきます。
理解とは「正しく解ること」であり、解釈とは「自分なりに意味づけること」
まず、言葉の整理から始めたいと思います。
理解とは、起きている事実や相手の言葉、状況を、できる限り歪めずに受け取ることです。「相手は何を言ったのか」「実際に何が起きているのか」を、そのまま確認し、把握しようとする行為です。ここには、自分の感情や価値観、過去の経験はできるだけ持ち込みません。理解とは、極めて客観的な姿勢を必要とします。
一方で、解釈とは、理解した(と思っている)情報に対して、「自分はこう思う」「きっとこういう意味だろう」と意味づけをすることです。解釈には、その人の価値観、経験、思い込み、感情が必ず入り込みます。そのため、同じ出来事を見ても、人によって解釈は大きく異なります。
問題になるのは、解釈そのものではありません。問題なのは、「解釈=理解」だと勘違いしてしまうことです。自分なりの意味づけをしただけなのに、「もう分かった」「理解した」と思い込んでしまう。この状態こそが、現場で多くのすれ違いを生み出しています。
勝手な解釈は、偏見や思い込みから生まれる
解釈が悪い方向に働くとき、そこには必ず偏見や思い込み、決めつけがあります。
「この保護者はいつも神経質だ」「あの職員は消極的だ」「この子は手がかかるタイプだ」。こうしたラベル貼りは、一見すると経験に基づいた判断のように見えますが、実際には事実を丁寧に見ているとは言えません。
勝手な解釈をする人ほど、「自分は分かっている」「もう見えている」と感じています。しかしそれは、正しく理解している状態ではなく、自分のフィルターを通して物事を見ているに過ぎません。
一度決めつけてしまうと、その後に入ってくる情報も、自分の解釈を補強する形でしか受け取れなくなります。結果として、「やっぱりそうだ」「やはりこの人はこういう人だ」という思い込みが強化されていきます。
保育の現場では、この構造が非常に起きやすいと言えます。なぜなら、日々の業務が忙しく、立ち止まって事実を丁寧に確認する余裕が持ちにくいからです。
保育現場において「解釈」はしてはいけないものだと考える
ここで、あえてはっきりと書いておきたいことがあります。
私は、保育現場において「解釈」は原則としてしてはいけないものだと考えています。少なくとも、安易にしてよいものではありません。なぜなら、解釈とは常に「自分なりに分かったつもりになる行為」であり、そこには必ず主観や思い込み、偏見が入り込むからです。
確かに、こどもは自分の気持ちや困りごとを、言葉で正確に説明することができません。表情、行動、声のトーン、生活リズムの変化など、限られた情報から状況を読み取る必要がある場面が多いのは事実です。しかし、ここで行うべきなのは「解釈」ではなく、「理解しようとする努力」です。
理解とは、「この子はきっとこう思っているはずだ」と決めつけることではありません。
「何が事実として起きているのか」「自分は何を見て、何を見ていないのか」を丁寧に確認し続ける姿勢です。分からないことを、分からないままにしておく勇気も含めて、理解なのです。
保育士が陥りやすいのは、「こどものことは分かっているはずだ」という感覚です。経験を積むほど、「だいたい分かる」「きっとこうだろう」と考えてしまいがちになります。しかしそれは、理解ではなく解釈です。そして解釈は、間違っていても本人が気づきにくいという点で、非常に危険です。
この「分かったつもり」は、こどもだけでなく、大人同士の関係でも同じ問題を引き起こします。職員同士、保護者に対して、「言わなくても分かるだろう」「この人はこういうタイプだ」という解釈を先に置いてしまうと、相手の言葉を正しく受け取る前に、自分の中で物語が完成してしまいます。
保育現場で本当に必要なのは、解釈の巧みさではありません。
分からないことを安易に埋めないこと、事実と推測を厳密に分けること、そして「まだ理解できていないかもしれない」という前提に立ち続けることです。
理解をする努力とは、楽な行為ではありません。時間もかかりますし、即断即決もできません。しかし、だからこそ専門職としての価値があります。
解釈で分かったつもりになるのではなく、理解しようとし続ける姿勢こそが、保育の質を支えているのだと私は考えています。
理解を飛ばした解釈は、信頼を削っていく
職員や保護者が「この人は分かってくれない」と感じる瞬間は、内容そのものよりも、受け取られ方に原因があることが多いものです。話している途中で結論を急がれたり、「つまりこういうことですよね」と先にまとめられたりすると、人は「理解された」と感じにくくなります。
理解とは、正解を当てることではありません。
相手が伝えたいことを、相手の言葉のまま受け取り切ることです。たとえ最終的な判断や結論が同じであっても、「そこに至るまでの話を聞いてもらえたかどうか」で、信頼感は大きく変わります。
理解を飛ばして解釈だけで対応すると、相手は「自分の話は聞かれていない」「勝手に決めつけられた」と感じます。これが積み重なると、「話しても無駄だ」という諦めにつながり、対話そのものが成立しなくなっていきます。
正しく理解するためには、意識的に立ち止まる必要がある
理解とは、実は非常にエネルギーを使う行為です。忙しい現場ほど、「理解する前に解釈する」方が楽に感じられます。自分なりに意味づけをしてしまえば、すぐに判断し、行動に移れるからです。
しかし、正しく理解するためには、一度立ち止まり、「これは事実か」「これは自分の解釈ではないか」と問い直す必要があります。
・相手は実際に何と言ったのか
・その言葉の背景には何があるのか
・自分はどこから先を勝手に補っていないか
こうした確認を挟むだけで、コミュニケーションの質は大きく変わります。
「わかったつもり」から抜け出すために
勝手な解釈をする人ほど、「自分は分かっている」と思いがちです。しかし、その状態こそが最も危うい状態です。保育の現場で起きる多くの摩擦は、能力不足や善悪の問題ではなく、「理解と解釈の線引き」が曖昧なことから生まれています。
理解とは、正しく解ること、真実に近づこうとする姿勢です。
解釈とは、その後に初めて行う、自分なりの判断です。
この順序を意識的に守ること。それだけで、保育の現場にある対話は、もう一段落ち着いたものになります。そしてそれは、保育士自身を守り、こどもや保護者との関係をより健やかなものにしていくはずです。
「分かったつもり」になっていないか。
その問いを、自分自身に向け続けることこそが、専門職としての成熟につながっていくのではないでしょうか。


