8Jul
私は「いつも何かに見守られている感覚」をもって生きていますし、会社の経営をしています。
それを人によっては「神様」と呼ぶ場合もありますし、人によっては自分が信じる宗教が衰廃する何かかもしれません。「自分は無神論者ですから」と言っている人でも、何か困ったときには「何か」にすがることが多いですし、無意識にそうしたものにすがることが多いと感じています。
私にとっての「何か」とは神道の中の「神」「この世界を司る何か」であり、この感覚は小さいときから「神社」に馴染みがある生活を送ってきたからだと思います。
会社経営をしていると、定期的に何かしらの「災難」やいわゆる「まさか」がやってくるのですが、上から第三者的な視点で自分や会社を観察するような感覚で乗り越えてきました。「やるだけやってダメなら、それは何かが今じゃねぇ。と言ってるのではないか?」とも思うになりました。
「人事尽くして天命を待つ」
こうした感覚は、定期的に地元の諏訪神社にお参りに行くことで、自分自身との対話や頭の整理などを通して培ってきたような気がします。そして、お参りを重ねるごとに、こうした第三者的視点で見ることができる感覚がドンドン強くなってきています。
人間を超越した「何か」に見守られて生かされている感覚ができてから、こうした気持ちですべての物事にあたっています。